ジャコメッティは何を描こうとしたのか

映画「ジャコメッティ 最後の肖像」を観る。思っていたより、居心地のよいの作品ではなかったのだけれど、彼がなぜ肖像画にこだわっていたのかを垣間みることができた気がする。

ジャコメッティについては、いくつかの作品を知る程度だったので、その人間性については、良いイメージも悪いイメージもなかった。しかし、肖像画のモデル(この映画の原作である『ジャコメッティの肖像』の著者で、美術評論家のジェイムズ・ロード)と対峙しているシーンで、何度も口汚い言葉を吐く姿に、私の中の何かが打ち砕かれるような気がした。やっぱり、芸術家というだけで、彼に勝手な幻想を押し付けていたのだ。

この映画では、ジャコメッティが肖像画を描いたかと思えば、それをまた塗りつぶして始めからやり直す過程が繰り返される。いったい彼は何を描こうとしているのか。

カメラは、ジャコメッティの視点を再現するかのように、モデルであるジェイムズの顔をクローズアップで迫っていく。執拗にモデルを捉えるカメラと同じ目線にとどまると、人間の顔の造りや、表面的に見える印象を超えて、形容しがたいものが迫ってくるような気がしてくる。平面に奥行きが生まれてくるような、ちょうど、ヴィパッサナ瞑想をしている時に身体の立体感を感じるような。同時に、その試みを邪魔するものが自分の中に何度もやってくることにも気づく。ジャコメッティは、その邪魔者に対して、口汚く怒りをぶつけていたのかもしれないとすら思えてくる。

ちなみに、ジャコメッティとジェイムズが二人で散歩しているシーンも見どころだ。アトリエでは口数も少なく、険しい雰囲気だったジャコメッティが、ここではユーモアと辛辣さとをまとってよく話す。特に、ピカソに対するコメントは笑えてならない。