作品におけるリアリティ -映画「pina」

ピナ・バウシュに捧げられた映画「pina」を観てきた。 見終えた後、久しぶりに拍手を送りたい気持ちに駆られた。

実のところ、ピナのことをほとんど知らない。でも、彼女が他のダンサーと違うと言われているのは知っていた。   

10代の頃、私は新聞の愛読者(!)で、なかでも演劇や音楽、舞踏のステージ評を読むのが好きだった。舞踏の記事の中にピナは度々登場し、誰もが彼女は特別な存在だと言っていたので、その名前だけは記憶に残った。特別な存在。それが何を意味するのかは分からないけれど、いつか彼女の舞台を見てみたいとぼんやり思っていた。しかし、ピナは2009年に亡くなる。その記事も確か新聞で読んで、もうピナには会えないのだと知らされた。   

映画の中に登場するピナの映像はごくわずかだが、その眼差しには、一目で惹きつけられる。 

画中では、彼女が芸術監督を務めたヴッパタール舞踏団のダンサー達が、それぞれにピナについて語る。彼らの言葉を通して、ピナという人物が立ち上がってくる。そして、ピナの求めた「探索する」というあり方が舞踏団のスピリットになっていることを思い知る。一人のダンサーの言葉にもあったが、彼らの中にピナが宿っているのか、彼らがピナの一部になっているのか。 

ピナの作品では、ある状況が描かれ、提示される。愛、悲しみ、孤独、怒り、笑い。言葉になる間もなく、あふれて、こぼれていく感情たち。そして、言葉にならない想い。それらが起きるままを描くだけで、答えを出さない。だから観る者は、自らに問いかけざるを得ない。 

身体表現にリアリティを与えているのが、舞台美術だ。映画は、舞台上に土が撒かれるシーンから始まる。踊るダンサーの衣装や体が土で汚れていき、それが汗でさらににじむ。激しく踊るダンサー達の呼吸音が響く。観るものを惹きつけてやまないその展開。起きることをそのままに見せる。それが作品として精度の高さや美しさを兼ね備えているということが何よりの驚きだ。そして、時に織り込まれるユーモアの数々。もっと彼女の仕事を知りたい。心からそう思った。 

映画監督のヴィム・ヴェンダーの仕事も素晴らしい。撮影のロケーションといい、ダンサー達へのインタビューといい、「分かっている!」と叫びたくなる。すべてにおいて、pinaへの愛が詰まっているのが感じられる。