東京都現代美術館で開催されている「名和晃平 ─シンセシス」展へ出かけた。
一般的に、展示には作品名や解説などを記したプレートがつきものだけれど、ここではあえてそれを外して、まずは観る人が主観でその世界を味わうよう促す。そして、展示を一巡した後に、作品のタイトルやコンセプトをまとめたパンフレットが置かれており、それを手に、もう一巡することを勧められる。
私もその誘いに乗って再度、観て回ったが、何の情報もないまま、主観的に作品と対峙したときのほうが、作品を強く感じられ、断然に面白かった。
「何の情報もない」というのは、作者側からの文字情報の提示がないというだけのことで、実のところは、自分が持っている知識や記憶を引っ張り出して、作品を観ているのだ。だから、自分の主観を形成しているものを否応なしに垣間見ることになる。
心が惹かれたのは、剥製の鹿がビーズで覆われている作品や、人形や乗り物などに白いカビや苔が生えたような作品だった。自分の知っているものが、息を失って、ほぼ死んでいるようにみえる。死んでいるけれど、生きてそうな気がする。そのあいまいな感じに照らされて、反対に自分の生きている感じが浮き彫りになってくるような。
また、「球体」という形の力に、その内に閉じ込められた生命力に畏敬を覚えると同時に、いつかはじけて壊れそうな、脆さを感じる。目に見えないくらい小さな球体状をした分子が、この世界にどれだけあふれているかと思うと、せつなくなる。