映画「リヴァイアサン」の衝撃

ドキュメント映画「リヴァイアサン」を観てきた。「これは一体、どう観たらいいんだろう」と久しぶりに戸惑う作品だった。 

そもそもこの映画を観に行こうと思ったのは、予告編を観たのがきっかけだ。映像と音響が溢れ出てくるような圧倒感があって印象的だったのと、監督が映像作家であると同時に、人類学者でもあるという点に興味をもった。 

戸惑いは、映画が開始して早々にやってきた。この映画は、マサチューセッツ州のニューヘッドフォードという港町を拠点にする、底引網漁船の数週間に渡る漁を題材にしたもので、すべての映像が海で撮られている。そのため、船室内で撮影されたシーン以外、基本的には波に揺られながら撮影されており、画面は常に揺れているといってもいい。 

画面を見ているだけで、波酔いしそうになるという、思いがけない状況になってしまった。シーンが進むうちに、空と海の天地が逆になったり、斜めに傾いたりするので、自然と自分の体を傾けて観たりしていて、いつもの映画体験とは全く違うことになっていた。 

撮影の手法も、カメラを固定したままか、手持ちで揺られながら撮っているかのどちらかに徹底していて、ワンカットを長回しで撮る。その長いワンカットが続くと、周りの観客が飽き始めているような気配が感じられ、それを観ている自分が試されているような妙な気分になってくる。しかし、映画が進むにつれて、これこそがこの作品の魅力であり、武器なのだと思えてきた。   

観ている方が、「もう分かったから早く次に行ってくれ」と心の奥でつぶやいたとする。けれども、シーンは続く。「いつまで続くんだろうか」と思いながらも、ひたすら同じように続く映像を観ている。すると、今、映像で捉えられているものが、この世界の縮図のようなものに見えてくる。表面的な美しさや醜さ、善悪を超えた、自然の法則のようなものが底流にあるような気がしてくる。 

衝撃的なシーンもいくつかあったが、私にとって印象深いのは、魚を捌いた後の真っ赤な水が、巨大な漁船から海へと大量に放出されるシーンや、底引網を海から引き上げるとき、網目から落ちた無数のヒトデが落ち葉のように舞う姿。 

執拗に迫ったり、時に波に流されるままだったり、カメラの向け方が、人類学者のそれを思わせるものだった。何かのストーリーを語るのでもなく、メッセージを声高に唱えるのでもない。そのカメラは、いったい何処に取りつけられたものなのか、人間の目線を感じさせない、独特のものだった。 

BGMは一切なく、波の音、風の音、カモメの鳴き声、機械のギリギリいう音、魚のぬめる音、刃物で魚を割く音、聞き取れない英語。それらが洪水のように行き交う。 

この映画の評論で、「記号的なカルチュラルスタディーズが終わりを告げ、感覚や感情によって対象を観察、記述する方法が現れてきている」とのコメントがあったが、これは頭を空っぽにしないと観れない映画かもしれない。  

映画を観終えて、外に出た時、日常に戻ってほっとすると同時に、ここで目や耳に飛び込んでくる刺激が、映画と同じくらい洪水のようであることに気づく。普段はそれら見ないように、聞かないようして過ごしているだけなのかもしれない。