父親が一眼レフカメラでモノクロームの写真を撮っていた影響もあってか、気づけばモノクロ写真を観るのが好きになっていた。人見知りのくせに、人を観ることは好きなので、名もなき人々のポートレート写真に惹かれる。自分も同じように、街に出て写真をとってみたいと思う時期もあったが、見知らぬ人の波に正面切って飛び込んでいく勇気は、私にはとても持てなかった。
生前、15万枚以上の写真を撮ったにも関わらず、作品を一枚も公表することもなく、この世を去った写真家がいる。その人、ヴィヴィアン・マイヤー(1926-2009)と彼女の作品に触れたのは、ドキュメンタリー映画「ヴィヴィアン・マイヤーを探して」を通してだった。
ヴィヴィアンは乳母として働く傍ら、写真を撮影した。1950~1960年代のアメリカのストリートを行き交う人々を撮った作品は、被写体となった人物が今にも動き出しそうな、生き生きとしたものばかりだった。ベビーカーを押しながら、子どもを連れて街を歩き、時にスラム街や家畜小屋なども訪れたと聞くと、乳母というのは表向きの姿に過ぎなかったのではないかと思わすにいられない。
彼女を知る者は、彼女を孤独でエキセントリック、ミステリアスな人間だったと口を揃える。自分の興味の赴くまま、ひたすら写真をとる一方で、自らを表に出すことはめったにせず、部屋に人が立ち入ったり、物を触れられることを極端に嫌う人だったという。また、凄惨な事件を扱った新聞記事を収集するなど、彼女の人間への興味は偏っているのかもしれないと思う面もある。しかし、その作品を見ると、見ず知らずの人を正面から撮影することができるほど、大胆さと勇気を携えた人でもあったのだと思う。
映画には、乳母や家政婦としての彼女を雇った人や、彼女が当時世話をした子ども達が登場し、彼女にまつわる記憶を語る。そこから彼女の輪郭は見えてくるものの、真実は誰にもわからない。
今ここに存在するのは、彼女の写真だけ。
写真を撮るという行為の素晴らしさは、複雑な人間の表情の中から、無意識の、本能的で自然な、健全で創造的な何かがにじみ出てくる瞬間をすくいとることにある。
— Jillian Edelstein